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繋-TUNAGU- 会員様インタビュー

繋-TSUNAGU-

Vol.70 2024.January

努力は必ず報われる

パナソニックホールディングス株式会社

特別顧問

大坪文雄 様

【略歴】
1945年 9月5日生まれ
1969年 関西大学工学部卒業
1971年 3月 関西大学大学院工学研究科機械工学専攻修士課程修了
1971年 4月 松下電器産業(現・パナソニックホールディングス)に入社
1989年 1月 シンガポール松下無線機器(株)社長
1998年 6月 松下電器産業 取締役
2000年 6月 松下電器産業 常務取締役
2001年 4月 AVCネットワーク事業 グループ長
2002年 6月 AVC社 社長
2003年 1月 パナソニックAVCネットワークス社 社長
2003年 6月 松下電器産業 代表取締役専務
2006年 6月 第7代目松下電器産業 代表取締役社長
2012年 6月 パナソニック 代表取締役会長
2013年 パナソニック 特別顧問
2016年 6月 帝人 社外取締役
2016年 学校法人関西大学理事
2017年 関西電力 社外監査役

入社を後押しした、幼少期の記憶

私が12歳の時、大阪の国道沿いに「ナショナルショップ」ができました。オープン直後、父の買い物について行った私は、息を呑みました。ガラス張りの店はとても明るくて、真ん中に大きなテレビと、木製の重厚なラジオ。その横に、洗濯機、扇風機、炊飯器といった、最先端の電気製品がずらりと陳列されています。豊かな生活を実現する商品が一度に舞台に並べられたようで、鮮烈な印象が刻まれました。
それから10年以上経って大学院を卒業するとき、就職指導の先生から前触れもなく「君、地元やし、松下電器に行けへんか」とお話をもらいました。子どもの頃に見たナショナルショップの光景を覚えていた私は運命を感じて「わかりました、受験します」と応え、数日後受験し、その日の夕方には合格が決定。1971年4月に、松下電器に入社したのです。

最初の試練

入社から3年後、録音機事業部をあげてのプロジェクトが発足し、プロジェクトリーダーを担う技術部長の補佐を務めることになりました。
それは、事業部を根底から作り変えるものでした。機械化によって大量生産を進め、各国に応じたモデルチェンジをして、一気に世界市場を目指すというのです。
リーダーが会議で使う資料の作成は、私の担当です。リーダーの意向に沿うように、徹夜でデータを調べ、電卓を叩いては、チャート用紙にマジックペンで一生懸命書きました。
急進的なリーダーの戦略が、事業部内で激しい反発にあうこともありました。部長が集まる会議で、私が出席者から「こんな馬鹿な数字あるか!」と面罵されたときは、リーダーがうまくその場を収めてくれました。
当時は自分の仕事で手一杯でしたが、強いリーダーシップのある部長のもと、技術開発と経営との関係や、商品のグローバル展開、組織改編の際にどんなトラブルが起こるかを間近で見られたことは、大きな財産になりました。

初代開発工場長としての奮闘

1980年代の中頃から、様々な電気製品の融合が起こりました。例えばテープレコーダーはラジオと合体して、「ラジカセ」が誕生。事業部にも合併が起こり、余剰人員をかかえたオーディオ事業部と伸長するビデオ事業部とで「AV本部」が発足しました。
合併後は余剰人員対策が必要です。そこで、AV本部直轄の、500人規模の開発工場が作られ、私は42歳で初代工場長になりました。
工場では、ビデオ事業部が外注していた仕事を請け負いました。社内工場は外注よりも運営費や人件費が高く、ビデオ事業部は利益率が落ちる。かたや下請け業者は、仕事を失う。開発工場は、社内からも社外からも敵とみなされる苦しい立場でしたが、AV本部はそれを理解して、陰に陽に助けてくれました。
工場長としての業務や会議をこなしつつ、定時が過ぎて残業食をとったら現場へ行って、「今どうなってる?」とみんなと話すことを徹底しました。意識して従業員の中に入り、「ここは余剰人員の工場と言われてるけど、違うで。何十億も投資されて、最先端の機械を導入してもらえる。みんなで頑張ろう」と士気を上げました。

努力は誰かが見ていてくれる

ビデオ事業部の足を引っ張らないために、なんとしても赤字から脱却したい。そこで、徹底的な自動化に加えて、機械を24時間稼働させる「三班三交代」の生産システムに挑戦しました。
夜間作業には社内の安全基準があり、機械の監視作業が80%以上、メンテナンス作業が20%以下という決まりでした。しかし、この80%という数値にどうしても到達できない。工場では全ての機械にランプがついていて、正常なら緑、トラブルで機械が止まると赤のランプが点灯します。ずらりと並ぶ機械のランプを見れば、「赤が1、2、3……あかんわ、6割や」と、すぐ分かります。どうすれば作業割合がよくなるか。毎日夜遅くまで、必死に知恵を絞りました。
本社への書類申請はギリギリの数値でパスしましたが、問題は現場査察です。専門家が見れば、80%になっていないのは見抜かれると不合格を覚悟していました。ところが、結果は「合格」。驚くと同時に、お天道様は見てくれている、と感じました。
今思えば、今後の事業再編における見本にしようという本部の意図もあったでしょうし、我々が夜中まで悪戦苦闘していることも知っていたのでしょう。将来80%以上に到達するだろうという期待の込められた「合格」でした。
一年あまり工場長を務めた後、私はシンガポールに赴任となりました。赴任直後、後任の工場長から手紙が届きました。「大坪さん。努力してもらったおかげで、開発工場は、やっと赤字ではなくなりました。僕ら、今も頑張っています」と。涙が出るほど嬉しかったですね。

家族の絆を強めた海外出向

1989年 1 月にシンガポール松下無線機器社長に就任し、家族帯同でシンガポールに出向しました。長女は高校1年生を終えた4月に来て、新学期の9月まで学校がない。日本の友達はみんな進級しているのに、自分はどこに行って何をしたらいいかわからへん。そんなストレスのせいか盲腸が破裂してしまい、現地で手術を受けました。
私は〝昭和のサラリーマン〟で、家のことは妻に任せ、毎日帰宅は遅いし、土日もいないことが多かったのです。娘たちが小さいときは、「ただいまぁ」って帰ると、起きていれば「おかえり」って飛んでくる。かわいらしいものです。それが成長して、「お父さんなんて……」となりかけたところで、シンガポール出向でした。海外生活で心細いとき、入院して手術するときには、やっぱりお父さんに頼るしかない。私にとっても、海外で仕事をする上で、家族の存在は大きかったです。5年半の赴任を経て、家族の結束が強まりました。

中小企業のリーダーに求められること

私は大企業しか経験していませんが、利益を上げて事業を継続し、社会にも貢献する、という経営の根本は、大企業も中小企業も同じです。
そのうえで、大きい船ほど航路を変えるのに時間がかかるように、大企業よりも中小企業の方が小回りがきくはずです。中小企業の良さを発揮するためには、リーダーはその利点にフォーカスすべきでしょう。
昨今は転職志向、副業もOK、しかもリモートワークが増えています。そうなると人の集団には遠心力が働きます。リーダーが求心力を発揮してみんなの力を集め、さらに相乗効果を働かさないと、組織力が発揮できません。組織に一体感を持たせることが、今後ますます、リーダーの重要な役目になるでしょう。

GCCOの強みはガバナンス

GCCOの会員である大学の先輩から連絡をいただいて、コミッティの委員長をお引き受けしたのが入会のきっかけです。
入会して感じたのは、組織のガバナンスが非常に正しく機能している、ということです。
新しい取り組みに対してみんなで意見を言い、それが着実に反映される。オープンな雰囲気で、良い人脈が築けます。
施設にも大満足です。立地条件も、電車の便も、周りの環境も良いし、こぢんまりした中で奥に広いラウンジがあって、両方に会議室があって、使い勝手が良い。どんなゲストにも喜ばれます。
料理は美味しくて、サービスも申し分ありません。私が連盟長をしているボーイスカウト大阪連盟の懇親会で、何十人もの席を用意してもらうこともあれば、社長・会長時代の秘書グループをメインに構成した「チーム大坪」として、昔話に花を咲かせることもあります。急に誰かとご飯を食べることになったときにも、GCCOであれば安心して案内できます。今日もこのあと、昔の仕事仲間と食事するんですよ。様々な場面に柔軟にマッチするGCCOは私にとって、お気に入りの一拠点になっています。

 

メンバーに大人気の「大坪文庫」

ご入会後、大坪さんには機会があるたびにGCCOをご利用いただき、また、コミッティ委員長として、パナソニック工場の見学会を企画くださったり、運営上のアドバイスを下さるなど、とても心強い存在です。
GCCOの入り口にある持ち帰り自由の「大坪文庫」は、バラエティに富んだ品揃えに加えて「大坪さんが読まれた本」という点も魅力で、在庫がすぐになくなります。「読書家ではない」と謙遜される大坪さんですが、次々と新しい本を補充してくださるので、その読書量はかなりのものとお見受けします。
これからも存分にGCCOをご活用いただけますよう、そして引き続き貴重なアドバイスをお願いします。(編集子)

 

(インタビュー取材:ライティング株式会社)

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