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繋-TUNAGU- 会員様インタビュー

繋-TSUNAGU-

Vol.66 2019. December

何事においても“和”の精神で

宮本敏子 様

私の座右の銘「心に太陽 唇に歌を」

略歴 PROFILE
1937年 2月 生まれ
1959年 3月 共立薬科大学(現慶應義塾大学薬学部)卒業
1960年10月 結婚

 

医者でない男性、 との結婚

私は、三姉妹の真ん中として昭和12年に生まれました。高校生になると友人達と一緒に 「結婚なんか絶対にしない」と言い合うような、姉妹の中で一番の〝跳ねっ返りのおてんば娘 〞でした。

父は医師でした。将来の進路を決めるとき「無理に医者にならずともよい」と言ってくれました。ですが、とにかく「手に職をつけたい。自立したい」という気持ちが強かったので、それなら薬剤師になろうと、共立薬科大学(現慶應義塾大学薬学部)に進学しました。
卒業後、地元岡山に帰りご縁をいただき、主人 (故宮本 一/元㈱きんでん相談役、元関西国際空港㈱会長)とお見合いをすることになりました。第一印象は〝珍しい人 〞。親族の男性には医師が多い〝医者一族〞で育ちましたから、サラリーマンと直に向き合ったとき、とても興味津々でした。

 

憧れの団地生活のなかで

結婚してはじめての新居は東豊中でした。いわゆる〝団地住まい〞です。ここは日本でもかなり初期に建設されたことで有名な公団住宅であり、運良く当選したのです。 当時は大衆の憧れとされた「キッチンと水洗トイ レ」が完備されていましたが、風呂とトイレがカーテン一枚で仕切られているだけですし、間取りは1DKの狭さであり、そこで若いサラリーマンの給料だけで暮らすのですから、生活水準にきびしいものがあったことは事実です。

次に、主人の転勤 (経済企画庁出向)に伴い、千葉県船橋市の高根台団地に移り住みました。ここでは主人が、他の大企業から出向されている方々と経済白書を作成していました。その打ち上げが我が家で開催され、皆さまのお話を聞くのが楽しく、それが私にとっての〝社会の窓〞となっていました。

 

家族の協力を得て、 チャリティコンサートの支援

人生の転機が訪れたのは、西宮北口駅近 くの社宅に移り住んでからのことでした。
当時、二人の息子にも手がかからなくなり、多少生活に余裕がでてきた頃でもありました。
当時、西宮北口駅付近には、名だたる企業の社宅が並んでおり、夫が会社に出かけていった後、主婦達はどこかの家に集まり互いの親交を深めるなど、ネットワークがどんどん広がっていきました。そこで、出会ったのがママさんコーラスです。
さらに、コー ラス活動で、運命の出会いがありました。オペラ歌手として有名な地元の声楽家、高丸真理先生です。ブラジルで活躍している修道女に感銘を受けた先生から、チャリティコンサートを開きたいので手伝ってほしいとお話をいただいたのです。 それまでは、ひたすら主人に寄り添い、尽くし、子どもに愛情をかけて育て上げました。 本当にこれだけでいいのかと、思っていた矢先でしたので、真理先生のコンサートをお手伝いし、日本国内で得た利益をブラジルの恵まれない子供たちを支援するという、地球規模のボランティア活動〝心は地球をかけめぐり 〞に、積極的に取り組んでいくことになったのでした。

私達のコンサートが他と違ったのは「すべてが手作り」 ということでしょうか。無駄な経費をかけるわけにはいきませんからね。会場の手配から、設営、地元への広報、チケットの販売までやるべきことは山のようにあります。そこで大切になるのが 「和」です。仕事であれ、ボランティアであれ、みなが一つにならないと、大きなことは成し遂げられないと思うのです。

1996年から今年まで計55回行ったコンサートのなかでも、たいへん印象深かったのは、宝塚バウホールでの公演です。劇場を満杯にしようと、苦労しました。そこで、私が頼りにしたのは、家族でした。裏方の準備は、真理先生の母上、妹、弟夫妻達と、私の主人、息子家族まで、家族総出で行いました。でも、その分、手作り感がでて、会場が温かな雰囲気に包まれていたような気がします。

CI ′TEさろん(大阪のまちづくりを推進するための民間団体で構成された組織)の方達が、裏方のボランティアとして、たくさん参加してくださったことも成功の要因でした。 ですが、当日は目の回るような忙しさ。お恥ずかしいことですが「関西財界の重鎮」を不肖わたくしが 「顎で使う」 ような場面もあったようで、いま思い出しても顔が赤らむ思いがいたします(笑)。

 

家庭生活は、 小さな工夫の積み重ね

現代女性はすこし弱くなった、と感じています。たしかに子育てと、仕事やボランティアとの両立は難しいでしょう。ですが、女性というのは、ただ仕事を頑張ればいいだけでなく、母性が大事なのです。子どもと触れあう時間がない、というのは言い訳です。いくら忙しかろうとも、こまめに気遣う姿勢があれば、きっとそれが子どもにも伝わるはずです。
個人的には 「つ」 のつく年齢、つまり0〜9歳までの子育てが、とても大切だと思います。買い物や台所仕事を手伝わせてふれあったり、話を充分に聞く時間が生まれるはずです。

 

宮本流〝女性の品格〞とは

最後に、GCCOの女性会員をはじめ皆様に メッセージを添えることで、このインタビューを終えたいと思います。私はこれまでボランティア以外「主人が第一」という思いで生きてきました。家庭には〝大黒柱 〞が必要です。最近は何でも男女平等と言いますが、そもそも男は男、女は女、まったく違う生き物であり、それぞれの役割の範囲内で平等であるべきでしょう。平等という概念をはき違 えてはいけないのです。
では、女性はどうあるべきか。第一にいつまでも好奇心をもち続ける、第二にいくつになっても装うことをやめてはいけません。主人との婚約が決まった頃「敏子ちゃん、結婚したらこれだけは守ってちょうだい。朝起きたら、薄化粧で夫の足元へ行って三つ指をつき 『お目覚めください』 と優しく声をかける。これが女というものですよ」 と、明治生まれの祖母が教えてくれました。ここまでしろとは言いませんが、現代女性はとくに、 男性を尊敬する気持ちが大切だと思います。ただ、そうは言っても、意にそぐわないこともあるでしょう。そんなときは、心のなかで「だったら子どもを産んでみろ」とでも、叫んでおけばいいのです(笑) 。

 

 

編集後記【おしゃれからお手紙まで、 そのすべてが〝お手本〞】

敏子さん (普段の呼び名で失礼…)は私の〝人生の師匠〞です。年末、おせち料理をお届けしたときのことです。急な訪問なのに、おしゃれな緑のセーターだけでなく、首元に同色のスカーフまで巻いていらっしゃるのに驚きました。「いつお客様がいらっしゃるか、わからないでしょ」 と。また、時折、敏子さんから手書きの丁寧なお礼状をいただくのですが、これがまた名文であります。冒頭のすてきな季語からはじまり、相手への気遣い、感謝の気持ちが、短い文面のなかで、さらりとまとまっている のです。 少しでも近づけたらと孤軍奮闘する私ですが、たとえ敏子さんと同い歳になっても無理なのかも、そもそも異次元の存在なのかも、と気付き始めています(笑)。(編集子)

 

(インタビュー取材:ライティング株式会社)

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