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繋-TUNAGU- 会員様インタビュー

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私の座右の銘「未来を信じる」
略歴 PROFILE
1955年 京都大学 法学部 卒業
新日本放送(現毎日放送)に入社 営業部に所属
1957年 報道部に異動
現場の取材活動や報道番組の制作に携わる
1981年 編成局次長兼テレビ編成部長
1985年 報道局長 1991年からは取締役報道局長
1995年 毎日放送を退社し現在に至る
テレビ番組「若い広場」「70年への対話」で民間放送連盟賞、「対話1972」「20世紀の映像」でギャラクシー賞を受賞。毎日EVRシステム常務、大手前大学教授、大手 前大学評議員、同志社大学大学院非常勤講師、関西大学 非常勤講師なども務めた。
不真面目な動機が一生の仕事に

私の父、辻平一は、毎日新聞の新聞記者で、1950年からは「サンデー毎日」 の編集長などを務めました。そのとき競争相手の扇谷正造編集長 の「週刊朝日」 は、吉川英治の 『新平家物語』 で人気を博していました。それに対抗するために父は源氏鶏太を起用し、毎回読み切りの 『三等重役』 を連載し、これで評判をとりました。おかげで2年間で販売部数を30 万部か80万部まで伸ばしました。この頃父は、「平家に勝つには源氏しかない」 と言って笑っていました。勿論、ジョークです。
その父を見て、私は幼いころから、新聞記者になりたいと考えていました。でも「社会の木鐸」 を目指すという立派な志を抱いていたわけではありません。父は大変な酒飲みで帰宅はいつも午前2時でした。父の話では、毎晩、夜12時ごろまでは有楽町や銀座界隈で飲み、「ここからなら歩いて帰れる」という家の近くまで帰ってくると、赤提灯の店でもう一度、飲み直すのだというこでした。ですから朝は当然のことながら、9時ごろまで寝ています。私はそんな父の自堕落な生活に憧れて、新聞記者になりたいと思ったようなところがありました。
でも卒業した年、朝日新聞は何故か入社試験をしませんでした。毎日新聞はしたのですが、父が「毎日だけは受けるな」 と言いました。「あれがお前の息子か」と言われるのが嫌だというのです。考えてみると私 も「あれがお前の父親か」と言われるのは、嬉しくありません。そんなことで新聞はあきらめ、同じメディアの放送局を選びました。
ですから私の入社動機は実に不純で不真面目ですが、放送の世界で働いた40年と、その後の人生は実に楽しくて、いい仕事を選んだものだと思っています。
民放の黎明期を生きる

私が入社した当時は、放送といえばラジオでした。テレビも私の入社する2年前から、 すでに日本で始まっていましたが、まだまだ受像機の数が少なく、ラジオがマスコミであるのに対し、テレビはミニコミでしかない存在でした。
報道でまず携わったのは 、「録音ニュース」の仕事です。当時はNHKも含め、ラジオニュースの主戦場は夕方の「録音ニュース」で、ニュース原稿に現場音やインタビューを挿入して作りました。なかでも一番工夫したのは、そのニュースを象徴する「方向性のあるノイズ」を如何に使うかでした。記者クラブにも属していましたが、デスクから「これをニュースにしろ」 と命じられると、取材し、録音した素材を編集し、原稿を書いて放送していました。むろん同じ出来ごとを他社もニュースにすることが多いわけで、それを聞いて、自分の作ったものとどう違うか、毎日、自分なりに学んでいました。
やがて30分のラジオのドキュメンタリー、当時は「録音構成」と呼んでいましたが、この番組を任されるようになります。あるテーマで2週間くらい取材し、取材したテープを100本くらい山積みにして編集作業にあたり、ナレーションを入れて番組にまとめます。
その過程では1週間近く社に泊り込むこともあり、そんな時には、「こんなしんどい仕事はもう御免だ。家の布団でゆっくり寝たい」と思うのですが、放送が終わって反響があり数日たつと、また次の企画を考えたものでした。
当時はテレビでもラジオでも、何を作っても、前人未踏と言えるようなところがあり、面白がって新しい実験に次々に挑戦していました。失敗も沢山しましたが、「ちっぽけな成功作よりも、壮大な失敗作を目指せ」と先輩にハッパをかけられました。また別の先輩からは、「毎日3人、これはと思う初対面の人に会って話を聞け」と教えられました。
やがてテレビが開局すると、ラジオの傍らテレビの ニュースにもかかわります。でもテレビに本格的にどっぷりつかるようになるのは、1964年ごろからです。
報道人としての原点・60年安保

報道に携わった32年間のなかで最も印象に残っている出来ごとは、60年安保闘争の取材です。
60年安保のピークは1960年6 月 15日、全学連主流派の学生が国会の南通用門から国会構内に乱入して警官隊と衝突し、樺美智子さんが亡くなった日だったと思います。
この日私は、取材ではなく民放労連の一員として、デモに参加していました。後で聞くと田原総一朗も岩波映画のデモ隊の一員として、参加していたそうです。
私たちが国会周辺にさしかかると、救急車のサイレンが間近に聞こえ、ただならぬ気配になりました 。
「何かおこったな」 と気づき、私は頭にしていた赤い鉢巻きを外し、取材記者に変身して院内に入りました。真先に出会ったのは、社会党の江田三郎書記長です。日ごろはダンディな江田さんが、顔も服も泥だらけにして立っていました。学生と対峙する警官隊を後ろに下がらせようとして、私服の警官に突き飛ばされたとのことでした。
ひとしきり取材をして社会党の記者クラブに行く と、NHKの9時のニュースが始まりました。学生 を「暴徒」 呼ばわりしているニュースでした。一緒に見ていた新聞記者連中がたまりかねて、「これはひどい。警官の暴力に全くふれずに、学生だけを非難するのは可笑しいよ」 と、 その場にいたNHKの記者に抗議すると、彼は「送った原稿はこうじゃなかったんだ」と顔をゆがめました。しかし翌日の新聞の扱いは、もっとひどいもので学生を一方的に非難していました。勿論学生が国会構内に乱入したことは許されることではなかったかもしれません。しかし、その排除のために警官が暴力をふるい、 一人の学生が亡くなったことをもっと重視すべきだと思ったのです。
翌朝、国会前に行くと、マイクを持つ私を見て大勢の人が、「私にも喋らせてほしい」 と集まってきました。日頃は、マイクを向けると逃げる人が多いのでびっくりし、「日本が変わった」 と感じました。
この安保闘争では多くの若者が、深い挫折感を味わいました。私もその一人です。 しかし宮沢喜一 は「戦後日本の ターニングポイントのひとつは、1960年のいわゆる安保騒動です」 と言っています。この時を期に、日本は大きく変わりましたし、この取材体験は70年安保と並んで、私の報道人生の一つの原点にな りました。
放送人の喜びと私の家庭

放送記者の喜びは、会いたいと思えば、誰とでも簡単に会うことが出来ることです。多くの政治家や財界人、学者や作家、文化人とお目にかかって話を聞くことが出来ました。
例えば吉田茂、例えば高峰秀子、例えば島津貴子、例えば植村直己、例えば谷崎潤一郎や芥川賞を受賞したばかりの大江健三郎。数えあげるときりがない程、さまざまな人たちとの出会いがあり、その人たちに登場いただいて、たくさんの番組を作りました。 ですが、もっとも大事な取材の対象は、普通の生活を営む庶民です。その方々も取材しました。
おかげで目茶苦茶に忙しく、帰宅は毎日、深夜でした。休めるのは、当時「半ドン」と呼ばれた土曜日の午後と日曜日だけ。でもその土曜日は昼すぎから夜中まで、麻雀をして楽しみました。これが私の唯一のストレス解消法でした。また日曜日は一日中寝て、一週間の疲れをとっていました。
麻雀の相手は社内の人の場合もありましたが、社外の学者や新聞人とすることの方が多かったように思います。ある日、ある友人から「今夜、加賀まりことやりませんか」と電話がかかりました。「いいですね」と答えると 、「それでは午前零時に、渋谷の店で」となりました。でも彼女 が「あら、少しお待たせしたかしら」 と現れたのは、午前2時でした。勿論その日は徹夜でした。
こんな生活をしているのですから、よき家庭人である筈はありません。帰宅すると娘は寝ている。朝目覚めると、娘は学校へ出かけた後といった具合で、娘の顔さえほとんど見られない日が、かなり長く続いたこともありました。しかしそれでも「パパはそういう仕事だから」と妻が娘に説明してくれていました。家族には、いまでも申し訳ないことをしたと思い、こんな私を許してくれたことに感謝しています。
気軽に過ごせる場所をいつまでも

おかげさまで退職して20年以上経ったいまも、多くの友人や仲間に囲まれて、楽しい時間を過ごしています。そうした時にこのクラブをよく利用します。また私が属している関西民放クラブの勉強会などでも、大いに活用させていただいています。ただクラブ のイベントには時間がうまくあわず、殆ど参加出来ずにいるのが残念です。
年齢を重ねますと、馴染みの店がなくなったり、代替わりで様変わりすることが多くなります。おかげで現役時代の北新地の馴染みの店は、いまでは殆どなくなりました。そうかといってこの年齢で、新しい馴染みの店を開拓する元気はありません。それだけに私にとって GCCOは、気軽に利用出来る大事なお店、大事な場になっています。これからも健在であってほしいと願っています。
編集後記【楽しかった過去から、 楽しい未来へ】

辻さんはGCCOがオープンした頃からの古いメンバーで、私たちの大先輩であり、500 名余のメンバーの中でも重鎮のお一人です。
実際にお会いする前から、さまざまなところでお名前を耳にして、「こんなに顔が広いなんて、いったいどんな方だろう」 と不思議に思っていました。今回のインタビューでその幅広い人脈は「仕事をしていたら自然と出来た」 と知り、辻さんの〝伝説〞がまた一つ増えました。
座右の銘として書いていただいたのは、立命館大学の末川博名誉総長の言葉 、「未来を信じ、未来を生きる」の前半だとのこと。辻さんは京大時代、非常勤講師で来られていた末川先生のとても楽しい授業を受けられたとのことでした。
「ぼくはいま 86歳。〝人生100年〞と考え る と、あとま だ 14年間、生きることになります。 その14年を好奇心を失わず、楽しく生きてい くためには、未来を信じること。 でも字が天才的に下手なので」と辻さん。その辻さんにとって、GCCOが今後もいい舞台であり続けるように、これからも頑張ります。(編集子)
(インタビュー記事:ライティング株式会社)

